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鈴木和彦のアトリエ通信


2011年8月 上へ

  多分、私が5才頃の事だと思う。暑い夏の夕方、セミの声を聞きながら私はひんやりした地面で眠っていた。そんなに遅い時間ではないのに、生い茂ったたくさんの木々に囲まれて、ある種、薄暗い水底のような場所だった。 もちろん地面に直接、横たわっていた訳ではなく、ムシロを敷き、その上にゴザが敷かれていたと思う。 セミの声も、「カナ、カナ、カナ...」という心地良く眠りを誘うものだった。
 現在、エアコンの効いた工房で、時にサマーベッドを広げ、昼寝をすることがあるけれど、遠い昔のそれと比べて、情趣は全然ない。 セミの声も聞こえるが「ジージー」というのや「オーシンツクツク」と、うるさいばかりで眠りにくくさえある。 ビニールのサマーベッドも幅はせまく、感触はベタッとして、とても寝心地の良いものとはいえない。
 時代は進み、技術も進み、豊かになったハズなのに...。
 あんな昔の幼い日の昼寝ほど、気持ちの良いものを、その後経験しない。 夏になると、毎年その事を懐かしく思い出し、「豊かさ」とは何なのかを考えさせられる。


2005年5月 上へ

 ほとんどいつも、工房にこもり、家具や木の絵の制作をしています。そんな私が、先日、ある団体が主催するパーティに招待されました。

 ある団体とは、千葉県にある社会福祉法人の養護施設です。中学、高校と同じ学校で学んだ友人がそこの副施設長をしています。そこのロゴマークとロゴタイプを依頼されてデザインしたのが3月ごろのことでした。
その施設の50周年ということであり、デザインも披露するということでよばれて行ってきました。
会場に入ると、ざっと数百名の人達がいて、演壇のバックには私のデザインしたマークを入れた大きな旗が飾られていました(何か恥ずかしかったです)。
 前半、例によってお偉い方々の祝辞が続きました。その後、講演があり、終わってパーティが始まると、私も嫌いな方ではないので、注がれるままにどんどんお酒を飲んでしまいました。すきっ腹にアルコールが入り、早くもポーッとしたところに、ドーンといきなり和太鼓の音が響きました。
ステージ上で演奏が始まったのです。
女性一人を含む五人のグループです。
よく見てみるとどうやらプロの演奏家ではないようです。それに五人とも盲目の方でした。やっと二十才位でしょうか。それでも演奏は素晴らしいもので、五人が一糸乱れずメリハリがあり、気持ちの良いものでした。
でも私が何よりも素晴らしいと思ったのは、演奏中の彼らの表情でした。演奏するのが楽しくて仕方がないといった本当に嬉しそうな笑顔なのです。
無心というのは、こういうことを言うのではないでしょうか。思わず目頭が熱くなりました。
プロになると、こういう気持ちをだんだん忘れてしまう気がします。それは、ジャンルにかかわらず大事なものだと思います。

 作る本人や、演奏する人が本当に楽しくやること、そうすれば作品、演奏にその楽しい気持ちが表れ、それは見る人にストレートに伝わるのだという事を教えられた一日でした。


2005年1月 上へ

 1月も半ばを過ぎて、作家30人以上が集うパーティがあり、出不精の私ですが主催者への義理もあって、参加してきました。
 県内のギャラリーで行われたわけですが、その場所で時々展示をしている主な作家が集まったというわけです。
 そのギャラリーのオーナーとは親しいわけですが、作家達とは初対面であり、又、参加者の三分の二は女性(年上の)でした。彼女達は日頃、親交があるらしく、立食パーティが始まると、飲み、かつ食べながらワーワーキャーキャーと大変な盛り上がりです。そのパワーに終始、圧倒されどおしでした。
ひるがえって、10人ほどの男性作家は、自分も含め、黙って酒を飲み、黙々とつまみを食べながら、立ちつくしていました。
 パーティが始まって、30分が過ぎた頃、これではいかんと当たり障りのない話題を見つけ、隣の陶芸家に話しかけビールを差しつ、差されつしながら、なんとかコミュニケーションが始まります。少し話しが盛り上がったなと思う頃、離れたテーブルで突然の甲高い声の大爆笑。60前後とおぼしきオバさまのフルパワーです。いえいえまだフルパワーではありませんでした。そのうちの一人、ギャラリーのオーナーの奥様から私に突然のご指名がかかったのです。
 「鈴木さん、鈴木さん、ちょっとこっち来て〜。」
行ってみると一緒にいたオバ様たちへの紹介なのか、
 「見て、ホラそっくりでしょう、さだまさしにィ」 「歌ってよ、楽譜があるから」
と、アルコールが入ってふだんの上品な奥様ぶりからは想像もできない、あけっぴろげで猛烈なリクエスト。
 その勢いに押されて断りきれず、
 「ちょっと勘弁してください。」
と思いつつ、オバ様達に囲まれながら 「北の国から」をやっと歌った気弱な私なのでした。


2004年7月 上へ

 久々のアトリエ通信です。実は桜咲く季節、3月の終わりに友人を亡くし落ちこんでいました。
作品制作上の事で、悩んだり、個展で作品があまり売れなかった時など、本当に親身になって励ましてくれた、得難い友でした。 彼自身、白血病という難病に苦しみ、この1、2年は体調の良い事はほとんどなく、入退院の繰り返しという日々でした。 それにもかかわらず、会えばいつもニコニコと人なつこい笑顔で、
「先生、大丈夫ですよ。絶対、素晴らしい作品なんだから」
と逆に元気づけてくれるのです。
 彼が亡くなってから、俺は彼の為に何がしてやれたのだろう? そして、彼の為に何かしたいという思いに変わっていきました。 ある日工房の中に置いてある板の木目に目が行き、
「これだ!」
と思いました。 ゆるやかな板目の上の部分に白い部分がグラデーションになっているものです。 それは建築で使う構造用合板という板で、ふだん、象嵌の作品には使っていないものでした。 その板をバックにして、上方から花と花びらが舞い下りてくる絵をすぐに思いつきました。 死者や仏を慰めるために花を撒く、それを「散華」というそうです。
鳥になった彼の魂が、明るい天界に向かって、飛翔を続け、天界からは花びらが落ちてくる。
この絵を制作する事で、私自身が慰められ、心が落ち着きを取り戻したように思います。
良い作品ができたり、私がマスコミのメディアにのる事を、我がことのように喜び、又楽しみにしていた人でした。 皮肉な事に、最近になって、色々と良い話がでてきています。彼が亡くなる少し前の頃などはどん底だったのに…。
 8月には、地球丸という出版社の「夢の丸太小屋に暮らす」という本に、私の作品が掲載されます。又、ある大手の人形の会社のお世話で、9月末まで大阪で作品が展示販売され、10月には神戸で個展が行われる予定です。
彼がいたら、どんなに喜んでくれたかと本当に残念に思います。
私の才能を信じてくれた友に報いる為にも、これからいっそう頑張って勉強し、良い作品を作っていきたいと思っています。


2003年9月 上へ

 本格的な夏を思わせる日々は申し訳程度しかないままに八月は行ってしまいました。暑くても、圧倒的な生命感を感じさせてくれる夏の太陽が大好きな私としては、何か淋しい限りです。
そんな物足りない夏ではありましたが、作家としては収穫がありました。
工房の隅で、ほこりをかぶったまま制作が中断されていた、大作の「森の王の為の椅子」を何年ぶりかで再開し、この7,8月で完成させたからです。
背もたれは、高さ166cmの大きな羽根、座面は幅60cm、前脚部分はライオンの足をイメージして作りました。更に背もたれには青いメノウ(石)がはめこまれています。
当初イメージした通り、堂々とした大きさ、ゆったりとした座り心地、そして、青いメノウは背面からの光があたると神秘的な光を放っています。
ここ数年、売るための作品作りに追われていましたが、久々に本来やりたかった仕事ができて満足しています。たくさんの方に見ていただきたいと思っています。


2003年2月 上へ

   ある晩、タバコを買いにでかけた。歩いて行くのが日課である。 工房の中に閉じこもって制作を続ける毎日なので、ささやかな運動である。
帰って工房に入ろうとふと立ち止まった。 なんとなく空気が違うのだ。錯覚かもしれないが、ふっと春の香りが漂ったように感じられた。
まだ二月である。厳しい寒さが続いている。それでも一週間に一度くらいは、暖かい日がある。
そう言えば、長期予報でも今年は春の訪れが早いと言っていた。
昨今、言い続けられている事だが、現代人は車を使う事が多くなり足が弱ってきた。それだけでなく、車での移動では、空気(外気)の匂いも感じられない。
歩いて移動すれば、道ばたの小さな野草の芽吹き、近づきつつある春の匂いを感じとることもできる。
あまりに便利になった世の中ではあるけれど、人は大事なもの、五感の喜び、感受性を少しずつなくしている様に感じるささやかな自然との交流で、人は良い気持ちになれるし、やさしくもなれる、そんな事を感じた夜でした。


2002年2月 上へ

  2002年1月、正月明けで仕事を始め、手に怪我をした。
20年程、木工機械を使ってきて、初めての事故でした。親指の先端を大きな丸ノコの刃にふれて、ザックリと切ってしまったのです。4針、縫いました。以下はその顛末であります。

小さな木片をたくさん作る作業をしていました。最初から 「あぶないなー」 という思いはあったのですが・・・。
木材が切断終了する直前でテーブルソーの盤面から浮き上がったのです。本来ならば、押し棒と呼んでいる押さえ棒で、押しつければ良かったのです。でも、その時はなんとなく手で押さえてしまったのです。
指先に鋭いショックがありました。 瞬間的に手を引っこめましたが、指先はザックリと切れ、床にボタボタと血がこぼれていました。
妻と一緒に車で病院へ行き、救急で受け付けを済ませましたが、なかなか手当てをしてもらえません。 私のすぐ後に交通事故で重傷の患者が入り、後回しにされていたのでした。
やっと名前を呼ばれ、診察台に寝かされます。傷口を洗い、縫合が始まります。 ナースが、
「麻酔の注射をします。 ちょっと、チクッとしますよ。」
というのを、
「ああ、チョット痛いだけか・・・。」
と素直に信じたのです。 と、あろうことかドクターは注射針をズタズタに切れて、ズキズキと痛む傷口につきさしたのです。 それはもう、何と言ったら良いのでしょうか、金づちで指の骨を砕いたらこんな痛みになるのかと思うほどのすさまじい痛みです。針の痛みもさることながら、麻酔の薬液が入っていくのが何ともすさまじいのです。
その痛みに耐えようと全身に力が入ったせいで、お尻の筋肉がつってしまいました。
「指がイタイー、ケ、ケ、ケツが痛いー」
と、自分で自分のお尻を揉みながら、必死に治療が終わるまで耐えた私でした。
それにしても、どうしてこのナースは、引きつった顔をして私を見ているんだろう、と思いましたが、
あお向けになり、少し腰を浮かしてケツを揉んでいる中年男の図、というのは、傍で見れば相当に珍妙であり、
ああ、彼女は必死に笑いをこらえていたのか、と今になってやっとわかったのでありました。

痛い痛い話でした。


2001年9月 上へ

  台風の影響で激しい雨が断続的に降っている。工房の中は静かで、私の好きな音楽のひとつであるハープの音が自作のスピーカーから流れている。
そんな空気の中で、新しい作品のアイデアを練っている。
中々、まとまらない。
発想を変えようとして、新聞をみてみる。と、その文芸欄に目が止まった。スペインの詩人ロルカの詩の一節があった。

「アーイ、確かな横顔の広大な夜よ。」

「突き立つ苦悩の天上の山よ!」

本当は、もっと長いけれど、この二行が、なぜか心にひっかかる。

私の絵のテーマとしている幻想にぴったりだ.
おぼろげながら形が浮かんでくる。
スペイン内乱で殺された、フェデルコ・ガルーシア・ロルカ。
詩だけでなく、音楽、脚本、絵画と多方面にその才能を発揮したロルカ。
20世紀初頭に活躍した才人の詩が、21世紀の初めの私の作品に素晴らしいインスピレーションを与えてくれそうだ。


2001年7月 上へ

  上野の都美術館で開かれている「アールヌーヴォー展」に行ってきました。
知っている人は知ってる、ガレやドーム兄弟のガラス器を始めとしてアールヌーヴォーのデザインに刺激を与えた日本の浮世絵、果てはヨーロッパのフォークアートまで、なかなか充実した展示だったと思います。
中でも植物や昆虫をモチーフとした、木製の家具は、僕にとって美術書では知っていても本物を見るのは初めてだったので刺激を受け勉強にもなりました。
惜しむらくは、私が以前から見たいと思っていたヴァランの大作家具やガレデザインによるベッド等、ナンシー派美術館のものがほとんど出展されなかったことです。
反面、アールヌーヴォーに大きな影響を与えた日本の工芸品、金属や貝の象嵌による印籠や織物、の技術の高さ、アイディアの斬新さには、新鮮な驚きを感じました。
逆に、名品ではなかったのでしょうが、展示されていた家具の象嵌には、感心もしなかったし、色味も少なく僭越ながら、こんな物かと思う程度でした。

100年ほど前の「アールヌーヴォー」 つまり当時としての「新しい芸術」は概ね良い刺激を私に与えてくれました.
一方で、当時の日本の工芸及び美術は堂々と世界にごし、時には世界に冠たる物であったことを再認識して都美術館を後にしたのでした。


2001年5月 上へ

  松屋での個展が終わり、休む間もなく四月は前から頼まれていた仕事をこなした。
五月に入って作品にとりかかろうとしたが、連休で家族サービス。
そんなわけで、少々調子が狂ったようだ。
作品の制作は集中力はもちろんの事、うまく言葉にできないが、日常生活と離れた世界にどっぷり入らなければできるものではない。自動車のギヤチェンジ、又はテレビのチャンネルを変えるようには頭は切り換わらない。
今は 「やろう、つくろう!」と思いつつ、なかなか創作の世界のドアが開いてくれない状態・・・といったところか。

良く思うのだけれど、作品のアイデアとそれを実際につくろうというエネルギーという物は、女性を好きになって、それから行動を起こす、そんな関係に似ている様な気がする。
例えば、ある男がある女性を好きになる、 その場合の女性の魅力というものは、万人が認めるものでないかもしれない。
「あばたもエクボ」ではないが、そこには当事者なる男にとっての、いわば「美しき錯覚」とでもいえるものが存在するのだと思う。
恋した男にとって、その女性は実際以上に美しく、魅力的に写っているはずなのだ。

私が、ある作品のアイデアを思いついて、それを良い作品に仕上げようと頑張る時にも、上記に似たような 「思いこみ、美しき錯覚」 が必要なのだ。
もちろん、推敲は必要なことだけれど、あまりに冷静に見つめていると、何もできなくなってしまうのだ。
つまり、勢いが必要であるし、それは作品にもハッキリとでるのだ。

今は、ある意味で批評家の心理になっているのかもしれない。あれこれと作りかけの作品に手をだしつつ、創作意欲を刺激してくれるという 「ミューズ − 美の女神」 の到来を待つ日々が続いている。


2001年2月 上へ

ロダンは、彼の最高傑作であり、最大の大きさの「地獄の門」を30年かけて完成させた。
テレビの特集番組を見て初めて知った逸話である。これには更に詳しい話がある。
この「地獄の門」は、フランス政府が、新しくできる美術館の為に依頼したものである。だがその美術館建設そのものが中止になってしまった。
そこでロダンは、この大作を自ら買い取ったのである。その後、修正をくり返し、改造し続けた。
彼が「これでよし!」と思うまでに後半生の30年がかかったのだ。
ダビンチも「モナリザ」を終生持ち歩き、加筆し続けたという。それがあの、えもいわれぬ「深さ」を生んだのだ。

いずれの場合も、自らの作品に対する思い入れの深さを感じさせる。
これらに比べると20世紀の美術には同等の深さ・思い入れを感じられるものは皆無といってよい。

自分自身の反省とともに、私も一生に一点で良いから本当に深い味わいを持つ作品を作りたいと心から思っている。


2000年12月 上へ

先日、親戚の叔父から使い込んだカンナやノミなど木工の手道具をたくさん譲り受けた。
叔父は50年近く、鋳物の型となる木型を作り続けてきた職人である。
加齢により目が弱くなり、細かい仕事が辛くなってきたのと、鋳物業界の不振による仕事の激減、又、技術革新により木型があまり必要とされなくなった等の事情で最近、仕事を廃業した。

譲ってもらった道具類をみると、どれも良く使い込まれ、刃はすり減り、特殊な用途の為に完全に自作されたものもたくさんあった。
それらの道具は私が受け取らなければ、「すべてゴミとして処分するつもりだった、この後も使ってもらえると嬉しい」と叔父は言い,実際、嬉しそうな、安心した表情だった。
私も叔父ほどではないが、20年程、木工の仕事をしてきた。道具は手の延長である。長年使うほどなじんで使いやすくなってくる。叔父の気持ちは良くわかる。大事に使わせてもらうつもりだ。
一方で、ここ数年感じている疑問が再び心に湧きおこってくる。経済、産業の変化と効率化による、手仕事の職人の廃業、激減である。
中には本当に必要とされない仕事もあるかもしれないが、単純に商品の価格を下げる為に仕入先をベトナムや中国に変えたり、材質をプラスチックに変える、構造を単純にするなどの事で、技術を持った職人がどんどん不要とされていく。

作り手側からの発想といわれればそれまでだが、私は「木は特別な素材だ」と思っている。
良い材料を使って、ていねいな手仕事で仕上げられた木工品は、単に機能を満たすだけのものでなく、見て美しく心に安らぎをもたらす物だと信じている。
「長持ちしなくとも、価格が安く、当分使えれば良い。だめになったら又買い直せば良い」というのは、とっくに時代遅れになっている。
「安物は結局高い買い物だ」、特に身近な耐久消費財は・・・。
この事を良く考えて欲しいし、良い物を長く使ってもらいたいと思っている。


2000年9月 上へ

思議」という言葉が存在する事をつい最近知った。ある文章の中にこの文字を見つけた時、「なーるほど」と思った。
つまり思議とは、「不思議」のもとになっている言葉で、理解する・考えて納得する、というような意味なのだと思う。
+(プラス思議」だから、理解できない・わからないという意味になる。
 チョット話は飛ぶけれど、象嵌の絵に使う材料は、一般的な木材と違い、白、黒、赤、緑、紫など様々な色を持ち、木目も板目と柾目だけでなく、玉杢と呼ばれる、一種、奇形的な特殊な渦を巻いた様な木目を持つ物もある。
それらの不思議な木目にインスピレーションを受けて絵のアイディアがでる事もある。
長年、木を見ている私でさえ、「どうしてこんな変わった木目、色ができるのだろう?」と今でも、新鮮な驚きを感じる物に出会う。
木に興味のある人にも、そうでない人にも実物を見せたくなってしまう。私も立派にオタクな領域に入っているのだろう。
絵の具と違い、色は限定されるものの、それを補って余りある魅力を木という材料はもっている。
乳白色の地に、微妙な紫色が雲のように入っている木、まるで嵐の後の空を思わせるグレーと白の絶妙な色合いをもつもの、さざ波を思わせる細かい濃淡の木目に、波頭にしか見えない白が入っている、それだけで十分にないだ海のスケッチになっている希少な材料など、例をあげればキリがない。
 今でもイラストの仕事で絵の具を使う事があるけれど、例にあげたような不思議な木目をもたらす、絵画的効果は、下手に筆で描かれた物をはるかにしのぐと思う。

 やればやる程、木の魅力にどんどんはまってゆく私である。


2000年8月 上へ

「ポルト・リガトの愛」

 これが、今とりかかっている新しい木の絵のシリーズの題名だ。
絵の制作にあたって、常日頃、心がけている事の一つに、マンネリズムに陥らないようにする、という事がある。

 ある時、ダリの画集を工房で見ていた。ずっと以前から持っている画集であり、その作品のページは何度となく見ていた。だが巻末のダリの関する資料は、おっくうでもあり、しっかり読んだ事がなかった。
初めて、何気なしに読んでみた。ダリとその妻は、今で言う不倫の末に結ばれた夫婦だった。シュールレアリズム(超現実主義)を応援し、その女神と呼ばれていた、後のダリの妻ガラは、ダリと初めて会ったとき、既に高名な詩人と結婚していた。
その最初の出会いで、二人は運命的な何かを感じ、惹かれ合ってしまったという。細かい経緯は省くが、その後、二人は駆け落ちし、結婚し、そのまま終生をともにする事になるわけである。
ガラと結婚する前のダリは、精神病院に入院する一歩手前になるほど情緒不安定になったり、ノイローゼ気味になったりしたという。それが、明るくおおらかで安定した気性の持ち主であるガラのお陰で、その後、精神的に安定し、又、彼女自身をモデルにした作品も多く描いている。
ガラはダリを尊敬し、応援し、支えた。又、ダリは彼女を深く愛し深く感謝していた。

 この物語を読んで私も二人の愛、ダリを支えたガラの人生に強く感銘を受けた。そこで冒頭の「ポルト・リガトの愛」の絵の制作が始まったわけである。
前置きが大変長くなってしまったが、物作りをする人間は常にアンテナを高くしていなければならないという事が言いたいわけである。同じ様な物を作り続けていれば見る側は飽きるし、つくっている自分がつまらない。
旅に出て風景を見る、借りてきたビデオを観る、雑誌・本を読む、近くの店までタバコを買いに行く。常に作品の事を考えていれば、作品のアイディアはそこら中に潜んでいるものなのである。

最後になったが「ポルト・リガトの愛」の絵で、バックの風景はダリとガラが終生住んでいたポルト・リガトの入り江であり、空中に浮かぶ花は、ダリに対するガラの献身の愛をあらわしたつもりだ。  。


2000年7月 上へ

このホームページの中の写真でもわかるように、私は様々な種類の木を使い、象嵌という技法で絵をつくっています。
その技法で絵を作る作家は他にもいますが、私のものは二つの点で大きく違っています。
一つは材料を自分で作っていること、二つ目は主題に彫刻がなされレリーフ状になっていることです。
材料を自分で作るというのは、厚めの板材、もしくは角材から5mm程の板を自分で製材しているということで、時に思いもかけない木目があって驚かされることがあります。
それは、雷雲や雨雲のようであったり、海の波頭を思わせるものであったりします。
 先日、製材を終え、なんとも不思議で興味のつきないそれらの木目を眺めていると、あることを思い出しました。
詳しい事は忘れましたが、テレビのある科学番組で、学者が「ミクロの世界とマクロの世界は非常によく似ている」と言っていたのです。例をあげると、「植物や動物、あるいは鉱物を倍率を上げて顕微鏡でみると、それらが互いに似ていたり、時に宇宙を思わせる場合もある」ということなのです。
似ているといえば、植物の葉と鳥の羽根はつくりが似ていると思いませんか?
私がもっと勉強して知識があればまだまだたくさんの例をあげることができると思うのですが。

 ともあれ、今までの事柄を発展させて考えてみると、
宇宙、又は、地球の事物、自然現象はなにか一つの大きな統一感のある原理でつくられ、動いているのではないかと思えてしかたがありません。